虚構物語などと漢字を並べるとこ難しく感じてしまうだろうが、何のことはない、 桃太郎のような御伽噺から文学、はてはマンガや映画で語られる「物語一般」について 考えようと思っているだけだ。それではどうして「物語論」ではないのかというと、物語る ということは実のところかなり意味が広くなってしまい、科学や歴史をも射程に含む ことになるのである。意外に思うだろうが、ナラトロジーとはそういうものである。 むしろ科学哲学や歴史哲学者の得意分野のはずだ。

僕が目指す虚構物語についての論考は、作り手の側にたつものである。 そうである限り、アカデミックな分野で繰り広げられる評論文化とは一応違うものになるはずだ。 何故ならば、そういった評論文化や芸術哲学などというものは 人に感動を与えるものが存在することを、自明としているところからスタートしているからだ。 要するに、桃太郎はこういう性質を持つ話であるということはいえても、 桃太郎はこうだから面白いといえるが、こうでなければ面白くなかっただろうとは 学者たちには言えないのだ。 そこで語られる作品の選定はほぼ慣習に過ぎない。 ところが、作り手の側からしてみればこんな悠長な話はなく、自分達がこれから 作ろうとするものが、ある関心を持つ人には絶対に面白いと思ってもらえるという 確信をもっているはずなのだ。もちろんそこには質が関わってくるとはいえ、だ。

それから僕がもう一つ言わなくてはならないのは、仮想体験性に訴える手法や、共感に 訴える作品はこきおろすつもりだと最初から決めているということだ。この物語論の 一つの基本的指針は、道徳倫理から美的な興味を引き離すことにある。その理由はおいおい 語るつもりではあるけれど、そういう考えが若いだとか、下らないだとか思うならどうぞ 読まないでほしいと思う。所詮、Webページの片隅で載せられるだけの文章であり 優れたことを描いてる人はいくらでもいる。