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鈴奈庵の最終回について

というわけでめでたく(?)鈴奈庵が最終回を迎えたので、とりあえず最終回前後の話を適当に振り返っておきたい。(あとあともう少し描き足す予定)

一言にまとめてしまうと、最終回は小鈴が宴会を通して霊夢や魔理沙達、妖怪や超人たちと「仲間」になるという話だった。もともとなぜ仲間になる必要があったのかといえば、小鈴が人間と妖怪の関係を不公平に思い、なおかつ妖怪の敵のようでありながら幻想郷を支配する(ようにみえる)霊夢や魔理沙たちに対して疑念をもったからだった。幻想郷のルールにおいては、人間は妖怪を敵視し、畏れ、妖怪は人間を恐れさせなければいけない。一方で人間は天狗によって嵐から守られ、河童によって水害から守られており、妖怪を必要とする。ということは妖怪は本当は敵ではなく、霊夢や魔理沙たちは妖怪と敵対することで幻想郷を支配しているのではないか?と考えたわけだ。

こういった疑念が生まれた背景は、そもそも小鈴が(妖魔本のせいで)妖怪たちにごく自然に囲まれていて、妖怪が敵には思えないということがあったからだ。妖怪は人間を個として考えて尊重するが、阿求は小鈴に対して、人間は妖怪をひとえに敵としてみなさなければならないと諭す。そのことが納得できない小鈴は、やがて幻想郷のルールへの疑念をもつようになり、「幻想郷のルールの守護者」たる霊夢や魔理沙たちや、里の人間の「不公平な支配」への疑義に繋がった。

などという話立てなわけだが、もっと大きくみれば「妖怪」と「人間」という幻想郷の基本的な対立軸に対して、霊夢や魔理沙たちの「例外の存在」の立場を明確にする話でもあった。小鈴は今回、その「例外」の立場の仲間に入れることで、誤解を解いたという話になっている。そしてその「例外」の世界とは、究極は宴会である。酒を交わせば俺たちはダチだから、退治といっても半殺しで観念してやるし、酒を交わせばこれからは種族関係なく仲間だぜ!という世界観。なんだか任侠っぽい。

紫はそうなるように、霊夢に一旦形の上で小鈴を茶番として退治(not殺害)させ、その上で宴会をするという流れになるように仕組んだのだった。なぜなら人間と妖怪は敵であり、退治するという関係でありながら、実際は仲良く宴会する仲だというのはルールの外の出来事だからだ。小鈴は「ルールの外」に出してやる必要があった。

阿求や文が理解をしていないように描かれているのは、阿求が「人間」という価値を代表し、文が「妖怪」という価値を代表するように(この中では)描かれてるからだろうと思われる。

東方は既存のルールが重要なものとして描かれるが、そこからはみ出るものもあるというのも同様に存在するように描かれる。鈴奈庵は端的にそれを示していると思われる。

鈴奈庵という作品は「人間側から見た幻想郷」という印象があった。そこから妖怪と人間のルールが説明されたわけだが、もう一方で「人間と妖怪の境界」を巡る話でもあった。その典型例がまさしく易者の回だったわけだけであり、小鈴もまた、妖魔本に囲まれた「境界を侵犯する存在」だったといえる。つまりこれらの境界を犯す典型例は「人間が妖怪化すること」であったが、他の道を見いだしたのが今回の最終回の話だった。

しかしそれは、霊夢や魔理沙たち自身も同様だということだと思う。霊夢や魔理沙たちは人間ではあるが、妖怪を退治する能力を持っていて、妖怪と一緒に酒を交わすこともできる。そこに本質的に、妖怪に対する恐れはあるのか微妙なところである。そして小鈴も妖怪を畏れるより受け入れる側にたった。

彼女たちが「例外」として、妖怪側でも人間側でもない立場に立つことが許されるのはどうしてだろうか?例外を許さないというのは儚月抄のときには見られて、永琳たちですら妖怪を畏れるという感情に晒さなければならなかった。しかし今回は明らかにその例外を許している。このあたりはまだすっきりとおちてはこないところかもしれない。

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