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絵の描き方 前段階

いろいろとネタは考えてるし言う事はいくらでもあるし、どうせ書き直し前提の記事なのだから嘘八百ならべるつもりではいるのだけれども、その時間さえない。いや、文章だけで、あとで画も追加するという趣旨ならいいのかとも思うけれど、とりあえず前段階として絵のもっぱら技術に対する主観を並べておこうかと思う。

絵がうまくなるのにどのくらいの時間が必要か?

別にいうほど必要でもないのではないか、という気がする。極端にいえば1ヶ月あれば僕のレベルには誰でもなれるはずだろう。いや、僕のレベルがそもそも低すぎるというのはあるのだろうけれども、例えば(筋肉の増強や、単語の暗記といった)時間がどうしてもかかって仕方がないというような要素が、絵にはあるだろうか?慣れということを重視する人がおおいけれども、絵なんて極端にいえばほぼ線の集合体だ。その全体を構成するバランスが難しいんだろうというのはわかるけれど、バランスにしたってつぶさにみていけば、案外単純な原理で構成されてるのではないかと思う。それを、ひとつずつ見て行きたい。 初心者マークで言い訳ができるのは、毎日一時間かくとしたら半年くらいかな。

絵がうまくなる練習方法は何か?

この手の質問は「誰でも確実にこれさえやってればうまくなる方法は何か?」という意味でなら、そんなものはないんじゃないかと思う。どんな理想的な方法であれ、それでも下手な人というのはいるものだろう。というか、絵に限らず、何らかの目標を達成するための努力において、誰でもうまくやる方法なんてあるだろうか。そんなことをいってるのは、多分必死なキャッチセールス位じゃないか。ただ先にも言ったように、別に絵が難しいからということを僕はいいたいわけではないのであしからず。

といはいえども、ダメな方法というのはあるとおもう。まず第一に極端に雑なのはやはり駄目だ。もちろん落書きを否定してるわけじゃなくて、その絵を見たときに、自分で良い悪いを判断できる程度にはととのえなければ成長の余地がないというだけだ。それと同時に、線が多いタイプも、少ないタイプに比べれば成長しづらいと思う。もちろん、例外は結構たくさんいる。どうしてもそこにこだわりがあるのなら気にすることはないが、改善する努力を払うことの方が大事な人のほうが大多数ではあるとおもう。いや、自分は作風としてこうしたいんですというタイプの人が多いが、できないことと、あえてしないことは別であって、練習ならあえてしないことをしたっていいと思う。そして、そういうことをいう大半の人は、単なる認識不足だとしか思えない。

比較的うまくなりやすい方法ということなら模写につきる。模写否定論を主張する人達のことを否定する気はないし、模写してても逆効果になる人もいるが、その辺は結局の所加減次第ではあると思う。いやならしなければいいし、しなければうまくならないというものでもないだろうし。

30秒ドローイングは効果的か

そうはおもわない。いや、ごく一部必要な人達には必要だろうし、ポーズマニアックス自体は是非ともやればいいとは思うが、なぜ、30秒なのか。イメージによる形成ということなのかもしれないけれど、どうにもこの手の「無意識を育てる」という類の方法は胡散臭くてかなわない。30秒で描いた絵なんて、自分でも良い悪いがわかるはずがないと思う。納得いくまで何度も描き直すなりすればいいだろうに、なぜそれじゃダメなのだろうかと思う。

おすすめの教則本は何か

  • ルーミス
  • スーパースポーツデッサン

ただしここではこういった本では見えてこないであろうことを描くようにがんばるつもりである。

Comments:8

名無し草 2010年2月14日 18:06

 どうもはじめまして。中々面白い試み興味深く読ませていただきました。
世の中には絵を語るのは実力にあってないとだめとか、ナンセンスだとか
実に色々ウルサイ意見がありますが「そんなこと気にせずやっちゃいなよ!」と大いに首肯する所でありますねw
(大体そんな事言ったら専門家以外批判しちゃダメってことになりますし)
私ごときヘボが長谷部さんに意見すること事態変ですが、真面目に悩んでいらっしゃるようでしたので…書いてみました!てへ☆

 内容を見ている限り色々迷っている所もあるでしょうが、
これらを明記しておく事は何より「自分自身」に対し大きく寄与する所だと思います。
絵を描く技術の根本的モチ―べーションには、やはり自分の目的や試行錯誤がありますしね。

 技術はその下地にある文化に受け皿がないと根付かない・・・それは個人においても同じだと思うのところがあるので・・・。
内容の是非よりも、長谷部さんがそれを掘り下げる意味でこの項目は意義があると思います。ファイト!


<内容に対する感想>
 私個人は絵の上達は「いいところがたくさん」ありますが、あくまで手段に過ぎないというスタイルをとってたりします。
そりゃあ、うまくなりたいし何でも描けて心躍る色彩の中に様々な創造性を作るのは素晴らしい事にきまっとります。
しかしそれ自身は目的ではない。自分自身でもない。ましてや本当に伝えたい事でもない。
結局の所自分自身を「作り耕すもの」の一つの手段、そして描かないものの重要さを知る・・・などの手段。

 無論これは絵の上達を否定しているわけでは「決して」ありません。ただ、それに捕らわれないもっと向こう側に
結果として、「絵の上達」がついてくるという事も若干あるんじゃないかなーと・・・。
そう考えれば、描くのは「楽しい」か別として(自分を知ることは一種の苦痛でもありますから)
「豊かである」という方向性には持っていけるのではないかと、ぽけぽけと考えたりするのです。

 もし、絵の発達が自身を知るということの延長上であるとするならば、そのやり方も千差万別で然り。
今八方塞で真面目に模索している人にとってこういう言い方は卑怯かもしれませんけどねw
でも大事なのはそのモチベーションを失わずに育て,それを絵に生かすこと・・・それが上達の真の意義ならば、
「上達する事への過程で」それを作って守っていく事が第一の前提条件としてある・・・のかもしれません。
そしてそれこそ、長く絵を描いていく事の条件であるのではないかなぁ・・・・とも。

<モチベーションを保持する下地>
 で、そのモチベーションは何か?は色々ありますが、それを保存するものは『物語』に役割の一端があるのではないかと。
物語は共同幻想(この言葉使いたくないなぁ)であるなら、「家族」も一部それに該当するかもしれません。
その物語の中でモチベーションが深く保存され、それに反発しようが賛同しようが、影響の大きさとして表出する・・・と。
物語成分を多く含むオリキャラや東方で見る「家族」が長く続いている事の証明としていえるかもしれません。
エロイ人がいい広告には時間が凝縮されていると言ってましたが、その時間は物語を凝縮しているとみれる・・・。
(ここでは感性については省いています。既に長谷部さんが専門家だしねw)

 今では消費構造に情報セーフティネットが低下した核家族は影響を受けやすくなり、消費思考の「ランキング」が
モロに影響されている・・・と小学生や保護者に接してたまに感じます。子育ても家庭に一人じゃ不安ですしね。
(あ、私は「教師もどき」でした、のであくまでその意見の一端として捉えて頂ければ幸いです。)
視野が狭くなって教育が商品化したり、外部にしつけを求めたりしちゃうのはしょうがないです。
個性を強調しつつもそれを生かす場を用意できず、ずべては自己責任に問われる・・・学校なんかいい例でしょう。
それはつまり多様化していた物語が薄まっていったのかもしれません。またその基盤も・・・

 ネット上でたくさんのコミュニティ、SNSができたのは物語の薄まりが自己肯定感をなくした反動・・・ともいえるかと。
それを探しつつ、絵の上達と共に、物語をネット上で紐帯を持って再構築していく反動・・・
それがニコニコやpixivの原動力としてあるかもしれません。あるいはそのバトンタッチとしての技術の延長に絵の上達が・・・
そういう所をこの内容の背後で長谷部さんは強く感じているのではないかなぁ・・・と、
妄想・・・ぎょべべべ、真面目タイム終了。


以上、長文の上に拙い感想、失礼しましたw
真面目な話しすぎて唇から血がとまんね―ぜヒャッハー!!
あ、私はここでは縁もゆかりもない赤の他人として書き込んだので、ここの話はここだけの事で・・・
おねがいしま・・・あ、てふてふだー☆てふてふーてふてふー♪

<追伸>
 私はロックは素人ですが小倉利丸『アシッドキャピタリズム』青弓社とかを読んでみると面白いかもしれないです。
まぁ、考えのご参考程度にどうぞっす。

長谷部悠作 Author Profile Page 2010年2月16日 02:10

コメントありがとうございます。
絵で何が重要かというのは伝えたいことであって、技術は後からついてくるものだという考え方はその通りだと思ってます。絵の上手さというものを、技術以上の意味に解釈して「豊かな絵」=「上手い絵」というような意味で扱うつもりもないです。個人的には型を重視してるというのはあるので、その辺のことを掬えれば特別それ以上のことを何か言うつもりもないです。単純に道具としての技術論を絵の教材のものとは違う形で考えたいという感じですし。ですから技術偏重の考え方は結果として技術そのものも豊かにならないというのはありうることだと思いますし、自戒もこめて考えたいのですが、多分ぼくはこういう考え方をしちゃう方なのだろうなと思います。
『物語』に関しては重要だと思います。ここで触れるといろいろと扱いが大きくなりすぎるのでいいませんし、世間で物語の関係がなくなってるのかどうかということを僕は寡聞にして知らないのですが、単純に考えても棒立ちの絵よりは所作に必然性のある絵の方が良いのは当然だとは思います。というかもろに僕のことでもあります。いろいろと物語というものの考え方には言いたいことはありますが、特別正当化する気も持ってないので言うこともないですね。そういうものの欠如があるのだとしたら単純に絵に対する姿勢が悪いってことなんだろうとは思います。

ロック関係の本は少ないので、チェックしてみますねー。ありがとうございます。

名無し草 2010年2月16日 02:55

 返信どうもありがとうですw
なんだかコメント返信催促するようでごめんなさい。
後半ふざけた内容になってしまって申し訳ないですorz
どうも最後の方になるとこの話から離れそうでしたので…


 あ、それと私は批難するつもりだとかそういうのでなくて、
単なるいち意見として参考にしていただければと思って書いた所存です。
もうすでに長谷部さんが考え抜いていると思いますしね。
ですので、技術にこだわる所は徹底的にこだわっちゃいなよ!とおもっていますぜ。うへへw


 …まぁ、世間で見る物語の薄れの根拠は明言できませんねw単なる考えの材料ですw
個人が持つ「物語」に関しても他律によるのか自律して元々もってるのかいまだ不明ですしね。
ただ、その個人の元である家族に注目し、核家族の分化など世帯数あたりの人数が下がった事は
家庭内で個人の物語を生きにくくし、家族機能外部化(教育)などによってそれを補おうとしている…
家庭料理の復興をめざしてクックパッドがでてきたり、電縁というものがでてきたりなどなど。


 一方で一部の近代家族を結ぶ「恋愛」が二極化し、できるものとできないものがでてきた…。
その結果はまぁ、そこから解放された最近の萌えとかBLとかラブプラスだとか、色々でてきたわけですねw
これらは全て「ジェンダーフリー」の内容だったり、「平等」に与えられる癒しだったりする一面があります。
そのくせ市場音楽ではランキングに常時「恋愛」の歌が蔓延したり…リア充、草食系などバイアスの嵐…
中々面白い背景だと思いませんか?


 アシッドキャピタリズムは労働市場と思考の関係を書いたものです。そのなかでローリングストーンや
ノイズ系の音楽・芸術などが果たした役割を絡めつつお話が進んでいくものですね。
読み終わるとちょっと未来が暗いのでは?などと思っちゃいますが、
たかだか50年の動きからの考察なので、普遍的な仕組みではないと高を括って
ざっくばらんに読む事をお勧めします。そういう仕組みが背景にある…という程度の認識でw


 日本には哲学者がいない、というのと同様にロックンローラーもいない…なーんて言われたりもしますが、
まだまだそう言う意見をぶち壊す要素があると思います。絵の技術に関しても同様です。
なので、私の話はあくまで是非を問わず材料程度に考えておいてくださいw
そもそも私の立場は説得力ないですしwただし、日本以外の貧しい国を見てきた事や、
そこでの日本の振る舞いとかを、よーく知る機会もありましたから、つい考えちゃうんですね…。
おせっかいなコメントで申し訳ないっす。
それでは、考察がんばってください!

長谷部悠作 Author Profile Page 2010年2月16日 03:45

ご返信ありがとうございますー
僕個人は確かに社会学だとか文化論だとかの本は一時期熱心に読んでて、そういう層にもいたんですが(今は卒業したとかそういうつもりもないです)それほど物語であれ実在性であれなんでもいいんですけど、世間の人がそういう求めてて、反動があって、みたいな構図は無批判には受け入れられなくなってるのでなんとも答えられないんですよ。もちろん正しくないとも思ってないんですが。東方なんかも、昔のオタクが熱狂したような作品と比べれば、物語性というものは薄いと思います。だからそれほど、社会学的意味だとか文化論的意味みたいなものは重視してないのですが、表現がもつ力みたいなものは青臭く少しは信じ込んでます。それは別にメッセージがどうというより、なんというかやっぱり技術と不可分なものだと思ってるので、そういう意味でも僕は技術主義者なんだと思ってます。もちろん別に、超絶技巧が正義というわけではないですが。ロックとかもそうで、別にロックスターの幻想がどうとかアングラな音楽シーンに若者が熱狂する意味どうとかってのも、そんなには重視してないので。
ですので余り、表現がもつ物語の意味が社会的な事象と連関してるという考え方に対しては、それほどぴんとこないというのも事実だし、あまりコミットメントする気にもなれないところがあります。だから表現に物語は要らないとかそういう話でもないので、ちゃんとやらないとなーとは思ってますが。
独りよがりな返信で申し訳ないです-。

名無し草 2010年2月16日 18:50

 最後に一つだけ誤解を解いておこうかと…。
これについての返信は別に要りませんから大丈夫ですw


 長谷部さんのいう「物語」ですが、私は別段サルトルとかフーコー、レヴィの『野生の思考』やベネディクトの『想像の共同体』、
マクルーハンの『メディア論』、ボードリヤールやウィトゲンシュタイン、ウェーバー、スピノザ、吉本隆明、フッサールなどといった
「教科書レベル」のやつから取り上げた話をしたかったのではないのです。
唯物論、唯幻論、現象学…これらを全てつなぎ合わせて読んでいっても単なる入り口にしかなりませんから。
大体文化論をやるなら実際の生活やエスノグラフィからそれを実践して批判的に読んでいかないと何の役にも立たないですしね。
実用書じゃあるまいし、読んで構造がわかったら苦労はしません。


なによりそれを通して「現代人の心情」などというアホウなお話をしたいのでもなかったのです。


 私が言った「物語」とは「自己アイデンティティ(個性)」に関わるものです。家族を取り上げたのはその下地にあるからです。
そのための「アジェンダ設定機能」を保つオートノミーな「構想する主体」としての家族…長谷部さんよりももう少しミクロです。
それが個々の家族に多様な「物語」を保存し、自己形成の第一歩として成り立っていく。自分がなきゃ表現できませんしね。


<その家族と物語について>
 近代では世帯内人数の低下から家族間が孤立化し、家族内部もプライバシーが高まった事により個人化が始まった。
トフラーの第三の波、マクルーハンのオートメーションや身体論などからしてもそれまであった機能が「外部」に移動した…
これは確かなように思います。高度経済成長期にサービス業が溢れんばかりに蔓延したとき、その家族機能の
「サービス化」がもあったのも確かでしょう。今の介護サービスは元々家族でやっていたものですしね。


 そしてそれはネット上でも同じ事。携帯が何故蔓延化したのかがこれに対するいい答えでしょう。
つまりそれまでの血縁から地縁が崩壊したものがネット上で紐帯をもって一部移行したのだと言う事です。
アメリカも核家族化が進んできたモデルとして取り上げられますが、その核家族化の「スピード」がいつも比較されていません。
他の先進国では10年かけて一人減ったのに対し、日本は3年で1人のペースで家族内の人数が減っているのです。
そのスピード変化に対応し切れなかった部分を大きく見落としているのが上の教科書レベルのお話でもあります。


 で、その「自己アイデンティティ」の下地となる物語を保存していた家族機能が外部化した結果、世帯内人数の低下と相まって、
多様化や個々の家族の伝統を伝える力の低下(食育の低下なんていい例ですね)から、外部に左右されやすい環境になった…。
少なくとも経済的に言えば共働きの核家族は一方が失業したら大打撃、そういうプレッシャーの中で生きることが多くなったのです。
これは視野が狭くなって、自分というものがキャラをかぶらないと家族を維持できなくなる…そんな下地が実在するのです。


長谷部さんは嫌いでしょうが、その物語(自己アイデンティティ)喪失の延長上に「自分探し」などという言葉が出てくるのです。
世間で言うアダルトチルドレン(サヴァイヴァー)などはそういったものの一端でしょう。
理想に向ってもがいている自分を「見つけられない」、自分を探す事に一生懸命で自分を「つくれない」・・・
それは個人の責任ではなく家族機能不全以外のなにものでもない。


それを自律した精神でやれば乗り越えられるという人もいます。
ですが、世の中には「失敗したら終わり」という風潮が出来上がっています。
自律のための条件として社会の摩擦に付き合うことがありますが、こんなハンディを負う場面が下位家族ほど多い。
一方で成功した人は精神が堕落するなどということはほとんどありません。失敗こそ猛烈に人を苛烈にさせる。
そしてやり直そうにも家族の内部にその機能は薄れてきている…


こんな下地で一体どうやって自律した精神とやらを育めばいいのでしょうか?
どうやって自分の価値観とやらを持つ事ができるのでしょうか?
自分がないのに一体何を表現するのでしょう?こんな状況でオリジナルって何?
選択肢があってそれを選んだから自己責任?選択肢に正解がないのに?
作品に触れて感性で補う?その作品も世で一番売れているものでしかないかもしれないのに?


所詮世間でもてはやされる思想などもそうです。「一番売れているから」に過ぎない部分もあるのです。
こう考えると前述の「物語」を定義している教科書レベルの役に立たない部分があきらかになります。


<教育での物語>
 教育会ではこれを補う為に「心のノート」を導入しました。その自律した精神とやらを補う為にです。
「物語」の付けたしとして、「世間代表」の文科省ですらそういう危機認識はもっているのですw
でも、その「心のノート」の内容は全体主義への賛歌と「愛国心」の強要…そんな表現で溢れていました。


 結果はまだ出ていませんが概ね文科省の現状認識の甘さや、物語に対して前時代的な勘違いのおかげで
この試みは失敗に終わりつつあるようです。ただ、「過剰な道徳」としての考えは増長し、それはネットでも同じようです。
それは表現の狭さとして、常々立ちはだかってもいます。
こう考えると結構関係してくるでしょう?

<機能補助としてかつてあったその場を再構築する動き>
 でも、それを何とかネットなどで補おうとしている働きがある。これはあくまで「力学的な関係として」です。
孤立した家庭内や、学校では内的アウトサイダーである第三者を取り入れ、相対的価値観を育み、距離を縮めたり
ネットではその内なるアウトサイダーをフッサールの意識的体験などを元にアーキテクチャとして取り入れつつある。
紐帯で結ばれた集団はそれを元に家族機能を補助し、麻痺した人間的距離感を調整する為ツイッターなどが登場した。
結果、家族機能の補填により物語りも何とか再生しようとしている。それの延長に表現があるということです。
そして「物語」を追求する事は「アジェンダ設定機能」として見ている人に作用し、
それは「個々のアイデンティティの再構築」そしてそれまでの急速な文化により離れていた世代への
バトンタッチとして機能していく…。


そういう「機能論」として意義もあると思いませんか?


<絵について>
 …以前pixvでオリジナル騒ぎがありました。猿真似は一概に価値がないというpixiv経営陣の鶴の一言がきっかけです。
背後に存在するそれまで途絶していたものを色々試行錯誤しながら前に存在していたものを取り入れつつ再構築する…
そんな動きも一緒に切って捨てるようなお話だったのですよw
そしてそれには多くのクリエイタ―が反発して、一部は署名活動までしていました。一部まだ残ってるでしょう。
それが今では「まるでなかったかのように」単なるオリジナル論争として作品の批評にまわされている…

経営陣の価値観は明らかにこの「物語性」や「個性」について盛大に勘違いをしているというところがありました。
pixivという市場から離れた、コミュニティという参加者が様々な表現を集め、多様化した場でもこういう勘違いをする。
し か も  そ の 主 催 者 が 。


実に身近にこういう問題は存在していると私は感じますw

長谷部悠作 Author Profile Page 2010年2月17日 00:03

ご返信ありがとうございます。
正直言ってどの程度話題が関与してくるのかいまいちわかってないので、名無し草さんの期待するようなコメントが出来ないです。違うとおっしゃるかもしれませんが、やっぱり単純にアイデンティティが危機的になった子供達が、ネットで自己承認されたと思える場所を見つけて、教育機関ではそういうことに対策をつくってるんだよ、っていう素朴な話に思えます。もっと深い意図があるのかもわかりませんが、ちょっと見えてこないので。それが深刻かどうかも僕は判断しようがないですが、いずれにしても表現とそれほど関係するのかなと、ちょっと不思議な印象を受けます。

pixivのオリジナル騒ぎというものを知らないのでこれまたなんとも言えないのですが(猿まねは価値がないってことは、何らかの絵のコピーに関する表現の規制ということですか?『オリジナル』というのがノンジャンルのことなのか、コピー元という意味なのかよくわかってません)、権利上の問題なんじゃないんですかね?Pixiv自体いろいろと問題はあるようですので、そのことに関していろいろ思うところはないではないですが、個性だとかって問題と関わってくるのかはよくわかりません。

名無し草 2010年2月18日 03:04

 確かに私の意図は余り伝わらなかったようですね。
余計な事を書いて申し訳ありませんでした。
普段から自分の疑問を他人に投影する事がどれほど意味のない事か…よくわかっていたつもりですが…
ついつい情けないお話をしてしまいましたねwこの前の絵チャのお話といい無駄なことを話したものです…
何度も自分の中で作った人と会話してしまうの…その行為を加速させるのがネットだから、それを切り離し、
先入観をできるだけ少なくして話すべきだったのに…私も馬鹿な事をしたものです。


 pixivに関してはその残っているログを見ていただくか、それについてのブログでもgoogleで検索し
実際に見てもらえないことには、私はこれ以上なんとも申し上げる事ができません。
私が紹介すれば、私の偏見が混じる事につながりますからね…ただこういう事があると知っておいて欲しかった…
それだけの事なのです。


 最後に、ツイッターで長谷部さんが私の名で紹介した事は大変残念に思います。


 書き込んだ以上、それを紹介するのはブログの主催者である長谷部さんにゆだねられているのはわかります。
しかし、私は多少とも身勝手なこの背景の意図を察してもらえるものと期待しすぎていたようです。
なぜ、立場の限りなく低い私が匿名にこだわっているのか、なぜピクシブで自分を公開しないのかを…。
もし、事前に私に断りをいただけたなら、私も前向きな返事でこのハンドルネームを変えたでしょう。
それが残念です…。
そしてツイッターの紹介文も長谷部さんの感想を伴っては公平に読んでももらえない…
この程度くらいとっくにご存知だと思ってました。


ここはちょっと失望しましたねw
私はここで純粋な意見を参考にしてもらおうと思っていた…ただそれだけだったんです。
もう、絵チャで私は従来のハンドルネームも使わないでしょう。嫌ですから…。


でも試み自体は応援していますよwそしてそれがきっと長谷部さん自身の力になる事も信じています。
ただ、私はまたしくじったようですね。相変わらず馬鹿ですw
なぜ意見など書いてしまったのか…今では恥かしい限りです。
それでは最後の書き込み、失礼しました。

tanよりチロリアンさんへ

長谷部悠作 Author Profile Page 2010年2月18日 04:34

まずツイッターについては自分が悪かったと思いますので、心から申し訳ないと思います。名無し草さんが名前を出されたことに抵抗があるのか、否定的なことを自分がかいたのが悪かったのか、その両方なのかわかりませんが、誠実さや思慮に欠ける点ではいずれにしても問題があると思います。

自分に言い得ることはほとんどないのですが、出来ることならば遺恨の残ることがないようなことを一方的に望むばかりです。それが不可能でも責める気はもちろんないのですが、勿体ないとは、思います。応援ありがとうございます。

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